おだやかな日々

文章の練習

もうカッコつけて小難しい文章書くのやめろ

ゆるやかに生きたい。し、ゆるやかに行きたい。自分はどちらかというと真面目なタイプの人間だから、ゆるやかに、洒脱に、肩の力を抜いて生きていけるタイプのひとがうらやましい。

自分のこの傾向は文章のうえで顕著だ。僕は賢く見られたいから、無理して賢い文章を書こうとしていた。

もちろん、そういう文章しか書けない人もいる。ただ、僕の文章は、自分への自信のなさのあらわれか、無理していて硬くて読みにくい、小難しい思想書のような文章になっていた。そういう文章を意識してえらんでいた。

 

で、最近の話。愛聴してる小沢健二の「ドゥワッチャライク」という連載をタイムラインで目にして、読んでみた。

読みやすい。

力が抜けている。

目からウロコが落ちた。

小沢健二ことオザケンは、東大卒である。しかも両親は大学教授。うらやましい。僕は地方旧帝という、なんとも中途半端な学歴!

しかも僕には文化資本がないのだ。学校の周りの連中は、家に書斎があったり、親が教授だったりする。僕にはそういうのがないのだ。

というわけで、僕は多少無理してでも小難しい文章を書かねば、と躍起になっていた。でもオザケンくらい実家が太くてたしかな学歴があれば、肩肘張らずに生きていけるんだろうな、うらやましいな、と、オザケンの文章を読んで思った。

 

また僕は「なるほどなあ」と思った。力が抜けているひとは、力が抜けてる文章を書くのね。文章というのは自己のいちばん根底の部分の発露だから、それが文章にあらわれるわけだ。

 

日記を書くのが内省にいいというのは、こういうところから来ているのだろう。自分の根っこに何があるのかを確認できるから。

 

みんな意外と、自分の根っこの部分に何があるのかを知らない。身近すぎてわからないのだ。それはたぶん僕もそう。人間の根っこの部分にある性質は、無意識にそのひとの身体になじんでいる。だからわからない。日記というかたちで無理やり自分と切りはなした「もの」にしなければ、わからない。こういうふうに、知らず知らずのうちになじんでしまった性質が、ひとにはたくさんあるのだと思う。「ジョハリの窓」なんかもあるしね。

 

眠たいときに赤ちゃんが泣くのは、眠気というのがわからなくて怖いから泣くのだという。いまの僕たちは眠たいから寝る。それは、眠たいときに寝ればおさまることを知っているということでもある。

 

でも赤ちゃんは、眠気というものを知らないから、眠たいときにどうすればいいのかがわからない。だから母親に助けてもらおうと泣きわめく。「眠る」という、一見生まれつき自然にひとの身体にそなわった機能のように見えるものでも、実は後天的な学習の産物であったりする(かもしれない)のだ。面白いね。

 

こういうふうに、知らず知らずのうちに身につけた「根っこ」が、僕たちにはたくさんあるのかもしれない。とりあえず僕は、もうカッコつけて小難しい文章かくのやめます。

小沢健二「LIFE」と94年の東京

 

 

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おれは小沢健二、オザケンが大好き。このオザケンの「LIFE」、みんな聞いたことありますでしょうか?

非常にいいアルバムなので、聞いたことがないひとは、ぜひ聞いてみてください。

 

このアルバムの特徴は、大胆なサンプリング(引用)と、底抜けに明るい曲が多いこと。

 

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一例として、こんなかんじです。ちなみにこの2曲とも、サンプリング元というか引用元というか元ネタがあって、それぞれ、

 

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これと、

 

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これです。聴いてもらえばまんまそっくりなことがわかると思います。

小沢健二こと通称オザケンは、東大文学部卒で、もともと小山田圭吾とフリッパーズ・ギターというデュオを結成していました。その活動の初期は全編英語で作詞しており(!)その学識の高さがうかがえます。

 

それは音楽においてもそうで、「LIFE」ではジャズとかファンクとかボサノバとか、さまざまな異なるジャンルの音楽から元ネタを複数ひっぱってきて、それをすべて質の高いポップスへと昇華するという、そういうことをやっています。

 

このように申し上げたとおり、「LIFE」はオザケンの音楽博識ぶりを堪能できる1枚なのですが、また、「LIFE」は全編をとおして、曲の全体としてものすごく明るくて、陽気で、牧歌的な曲が多いことも、先ほど述べました。これはそのまま当時の雰囲気を反映していると僕は考えています(当時生まれてないけど)。

 

「時代精神」という言葉があります。「時代精神(ツァイトガイスト、独: Zeitgeist)は、ある特定の時代や世代における支配的な精神傾向、思想、社会の雰囲気のこと。哲学者ヘルダーにより提唱され、その時代特有の価値観や信念、文化の基盤を指す」そうです(AIに解説してもらいました)。

「時代感」ってことですね。日本でいえば、大正ロマン、昭和レトロ、とか、そういう感じです。

 

「LIFE」のリリースは、1994年。1994年といえば、バブルははじけたものの、まだまだその残り香はつよく、日本が好景気を謳歌していた時代。もう少し時代が下ると、1997年に山一證券と北海道拓殖銀行の破綻があり、バブル崩壊と経済の低成長が表面化してきます。

そんなぎりぎりのタイミングで、オザケンの「LIFE」は生まれました。

 

一般に、国家における文化の爛熟期は、経済の爛熟期(つまり成長期)から、すこし遅れてやってくるとされます。江戸幕府などの例をみても、経済が安定したから文化が花開く余裕ができるのです。

 

そう考えると、日本の経済の爛熟期は、1980年代。上り調子でバブルに向かっていき、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われていた時代ではないでしょうか。そう考えると、日本の文化の爛熟期は、1990年代、もっというと90年代前半だと思います。

オザケンが少年時代を過ごした1970年代後半、または1980年代は、日本がアメリカの背中を追って経済大国へと成長し、またファンクやAOR、フィリー・ソウルなどアメリカ式の「お洒落な音楽」が、深夜ラジオやレコード屋で手軽に消費できた時代でもありました。東大教授のお父さんと世界的な指揮者の小澤征爾を叔父にもつオザケン少年は、そんな経済が上り調子の日本のなかで少年時代を過ごし、90年代の文化の担い手へと成長していったのです。オザケンは、この点で、当時の日本の「時代精神」の申し子なのではないか?と、僕は思います。その時代精神の申し子によって、自動筆記的に書かれた名作。いわば「時代精神」の結集、それが「LIFE」だと思います。

 

先述のとおり、「LIFE」のリリースがあと1年、いやあと2年ずれていたら、このクオリティはありえなかった。あと数年経つと、日本は失われた20年とも30年とも呼ばれる長い長い不景気に突入し、このような牧歌的な、享楽的な消費への傾向を、永久に失ってしまうからです。

 

現に、オザケンは、90年代後半から長い長い活動休止期間に入ります。小沢健二は、オザケンの仮面を被ることに疲れてしまったのです。そしてそれは、テレビによって演出された、享楽的で明るいお坊ちゃんである「オザケン」の像が、日本の現実にそぐわなくなった、つまり「時代精神」を体現しなくなったことの証明でもありました。

 

この時代の東京は、世界中の消費文化の頂点でした。それは、オザケンの歌詞にもあらわれています。

 

誰かにとって特別だった君を
マークはずす飛びこみで僕はサッと奪いさる
寒い冬にダッフル・コート着た君と
原宿あたり風を切って歩いてる
たぶんこのまま素敵な日々がずっと続くんだろ
風冴える クリスマス 君の心の扉を叩くのは
いつも僕さって考えてる

 

1994年「ドアをノックするのは誰だ?」

 

プラダの靴が欲しいの そんな君の願いを叶えるため
マフラーを巻いて 街へ出て
恥ずかしいながらもウキウキ通りを行ったり来たり

 

1995年「痛快ウキウキ通り」

 

当時のオザケンの歌詞にあらわれている1994年の「東京」や「街」の表象は、いつでもキラキラまぶしく輝くようです。しかし、この輝きは、あくまで一時的なものだったのです。

そう考えて「LIFE」を振り返ると、なんとも趣深いです。

 

この全体的に底抜けに明るい「LIFE」のなかで、唯一もの悲しく、暗くて異彩を放っている曲があります。それが「いちょう並木のセレナーデ」です。

 

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こんな曲です。これ自体は何の変哲もない曲ですが、実はこの曲は2回繰り返され、「LIFE」はこの曲で終わります。この曲のオルゴールバージョン、つまりリプライズで、「LIFE」は終わるのです。不思議なアルバムです。全体としては明るいのに、繰り返された暗い曲で締められる、という。

 

こう考えると、「LIFE」は1994年の東京の風景だけではなく、時代精神的な自動筆記の霊感によって、今後長い長い停滞期に入る日本経済の行先をも描写していたのかな、なんて考えたりもします。

 

小沢健二「LIFE」の話でした。読んでくださりありがとうございました。

 

 

 

おれはおれ自身を肯定したい

おれは本が読めない。おれは文学部(文学部って何するんだ?)。文学部には本読んでる人、たくさんいる。だけど、おれ本読めない。いや、読んでるのかもしれないけど、読んでる人よりは読んでない。

おれは読んでない本をあたかも読んでいるように語ることがある。かっこよく見られたいから。それはあたりまえ。おれは読んでいる本しか読んでいない。

本を読むってことは、というか音楽をたくさん聞くとか、映画をたくさん見るとか、「よき消費者」であることは、意外と難しい。「いやただ読んでる/見てるだけじゃん。作ってる人よりは大したことない」ってひともいる。けど、敷居が低いからこそ、取り組む人が多い。作ることの方が簡単かもしれない。

そう考えると、おれは自己嫌悪におちいる。おれ全然読んでないじゃん。部屋のなかには積読だらけ。えーと、「キリストにならいて」も読んでないし、「チベット死者の書サイケデリック・バージョン」も読んでないし、「行動分析学入門」も読んでないじゃん。せっかくAmazonで買ったのに。

というか、いったい何をめざしておれは読んで(聞いて/見て)いたんだっけ?

 

ここで、発想を転換してみる。べつに、読まなくてもいいんじゃないか?すべての人間なんて、いつかはやさしさの中に消えていくんだから(by小沢健二)。

というか、読んでなくても偉そうに語っていいんじゃないか?おれ、喋るの好きだし。というか、読めないものは読めないし、聞けないものは聞けない(聴くっていちいち変換するのめんどくさかった。ごめんなさい)。あと見れないものは見れない。

おれは、ここに一種の運命的なものを見ます。すべての出会いが運命的なものであるのなら、出会わないこともまた、運命だと思う。

たとえば、あなたの人生で名前だけ知っている映画があるとします。あなたはその映画を見ていない。こんなに友人たちとの会話で登場しているのに、あなたはまだ見ていない。見た方がいいのかなと思いながら、同時に、たぶん一生見ないだろうな、とあなたは思う。それでいいんです。見ないものは見ないから。それがあなたの人生であり、生き方であり、運命です。

 

とりあえず、おれは、読みたいものだけ読みます。それがおれ自身の運命だと思うから。

おれは本が読めない。だけどおれは、そんなおれ自身を肯定したい。

 

宮本常一「忘れられた日本人」

 

最近、岩波新書から「宮本常一」なる本が出た。買う気が起きなかったので博多駅の本屋ですこし立ち読みしたが、それほどぶ厚くなく、また一章が割かれて「宮本民俗学に影響を受けたひとたち」として網野善彦や司馬遼太郎の仕事が紹介されていた。本じたいは良い本だと思うが、いかんせん薄い。学会の宮本常一に関する研究の蓄積が少ないことを実感させられた。

 

それには「忘れられた日本人」のヒットによって、ジャーナリスティックな興味をかき立てるフィールドワーカーとしての宮本像が広まったことや、文化人類学に押されて本邦の民俗学が顧みられなくなってきたことなど、様々な要因があると思う。柳田国男と宮本常一以外の民俗学者の名前を何人言えるだろうか?宮本の本を読んでいても、おそらくひとりも出てこない人がほとんどではないだろうか。日本の民俗学は、まちがいなく退潮のさなかにある。それは、近接分野の文化人類学者も述べているとおりだ。

 

「落日の中の民俗学」。宗教学者・山折哲雄(1995)がそう評してからすでに20年が経とうとしている。柳田國男、折口信夫、南方熊楠といった巨匠たちの研究は今でも広範に読まれ、人類学や日本思想などの領域にインスピレーションを与え続けている一方で、その後の研究は関連領域の専門家以外には知られていないという印象を受ける。また、従来の民俗学が研究対象としてきた農山漁村の生活は高度成長以降、急激に変化してきた。例えば隠岐島では、島内に舗装道路が引かれ、自動車による移動が当たり前になった結果、夜間の山道で人を化かしていた「ヤマネコ」はごく少数の例外を除いて影をひそめてしまった(近藤  2013)。このような時代に民俗学は現代のアカデミアに貢献し続けることができるのだろうか。

「lexicon 現代人類学」p108

 

というか、宮本常一を「民俗学者」と呼称するのは不適当であるように思う。先述の新書でも触れられていたが、宮本はすぐれたフィールドワーカーであり、それを起点として民俗学にはじまり、教育学、観光学、果ては農政学に至るまで多大な貢献を残した。宮本は、あえていうとするならば「フィールドワークの人」であって、その思想は何らかの学問体系に区分できるようなものではない。

 

前置きが長くなった。「忘れられた日本人」に収録された文章の多くは1958年に創設された「民話の会」の機関誌『民話』に連載されたものだ。「対馬にて」や「子供をさがす」等々、村の生活を克明に描写した記述の面白さは一級品であるが、とくに注目したいのは、紀行文のような趣きのあるその心情描写だ。

 

こうして道をあるいていて思ったことだが、中世以前の道はこういうものであっただろう。細い上に木がおおいかぶさっていて、すこしも見通しがきかない。自分がどこにいるかをたしかめる方法すらない。おなじ道を何回も通っても迷うということはよくわかる。狐狸の人を化かす話も、こういう道をあるいてみないとわからない。

「対馬にて」p23

 

このように、柳田の論考には欠けている、フィールドワークをしてみての実感といったようなものが、宮本の文には随所にみられる。宮本は史料や口碑を渉猟して、そこから論理だてて往時の生活を理解しようとしたというよりは、実際に野山に分入り、農民と同じような境遇に身を置くという、多分に参与観察的な行為のなかでの実感として、人々の生活を受けとめようとつとめた。これが宮本がフィールドワーカーであって「〇〇学者」と定義できない理由であり、また民俗学のなかで宮本の研究に対する蓄積が浅い理由でもある。宮本の方法論を真に理解するためには、宮本のように全国各地を尋ねまわることが必要不可欠だからだ。

 

また、そのすぐれた聞き取り技術によるライフヒストリー(=生活史)調査も白眉である。社会学的・民俗学的方法論のひとつであるライフヒストリーは、 データを集めて法則性をたしかめるという量的調査ではなく、質的調査の方法論として存在する。聞き取り調査として、ひとりの人生を、その生まれから家庭環境、そして成人に至るまで詳細に聞いていくなかで、個人と社会との関わりを明らかにし、個人の「ライフ」を、大枠の「ヒストリー」と同じ重さをもつものとして捉えるところに特徴がある。宮本常一に関して思うのは、民俗学への貢献のほかに、この文化人類学・社会学へのフィールドワーカー的貢献ももっと触れられていいのではないかということだ。宮本の聞き取り調査は、たとえば社会学者の岸政彦らが編纂している「〇〇の生活史」プロジェクトとの近似を感じる。

 

宮本は聞き取りの際、絶対にメモをとらなかったという。双方向の「会話」の楽しさや重みが失われてしまうからだ。楽しげに、時には痛切に喋る古老の言葉へ丹念に耳をかたむけ、そして会話が終わったあとに急いでメモをとったという。

それゆえに、宮本の文章には臨場感がある。たとえば、名作として名高い「土佐源氏」。

 

「あんたはどこかな?はァ長州か、長州かな、そうかなァ、長州人はこのあたりへはえっときておった。長州人は昔からよう稼いだもんじゃ。このあたりへは木挽や大工で働きに来ておった。大工は腕ききで、みなええ仕事をしておった。

時にあんたは何が商売じゃ?百姓じゃといいなさるか、百姓じゃァあるまい、物いいがちがう。商売人じゃないのう。まァ百姓でもええわい。わしの話をききたいといいなさっても、わしは何にも知らんのじゃ、何にもなァ。ばくろうしておったから牛や馬の事なら知っとる。しかしほかの事は何にも知らん。

どうして盲目になったといいなさるか。盲目にのう、盲目になって、もうおっつけ三十年が来る。ごくどうをしたむくいじゃよ。まァ、ずいぶん極道しよったでのう。極道がすぎて、まともなくらしもようせなんだ。

あんたは女房はありなさるか。女房は大事にせにゃァいけん。盲目になっても女房だけは見捨てはせん」

いろりには火がチロチロもえていた。そのそばに八十をかなりこえた小さい老人があぐらをかいてすわっている。いちじく形の頭をして、歯はもう一本もなくて頬はこけている。やぶれた着物の縞もろくに見えないほどよごれている。

「土佐源氏」p132

 

盲目の老人が、囲炉裏のか細い火のそばで、自分の人生をぽつりぽつり語りだす…そのまるでフィクションのような(実際これは宮本のフィクションであることが後に判明するのだが)状況が、臨場感と量感に満ちた文章で描かれている。

 

また、生活史の記録では、社会の大きな出来事(宮台真司の用語でいえば、カッコ付きの「歴史」)と個人の生活の関わりあいが面白い。

たとえば、作中の「世間師(一)」では、宮本常一の祖父の近隣に住んでいた増田伊太郎という古老の生涯を記述しているが、そのなかで長州征伐が出てくる。

 

慶応元(一八六五)年長州征伐のあったとき、伊太郎は年が十四歳であった。当時は十五歳で若者組に入り、若者組に入れば大人とみとめられたのであるが、伊太郎は十四歳でまだ子供だったが、父親が病気のため、前髪のままで人夫として出ていった。紺の着物を着て、腰に一本脇差を差し、竹やりを持って出ていったのである。まだ子供だというので、近所の庄吉どんについていった。庄吉どんは分別のよい男であり、また世間師の一人であった。そして終始伊予の方へ出稼にいっていたが、戦争がはじまると人夫に狩り出されたのである。

「世間師(一)」p215

 

長州軍と幕府軍の戦いという教科書的な知識での「長州征伐」とは違い、ここでの「長州征伐」は、ひとを人夫として狩り出す戦争であり、実際に増田伊太郎というひとりの男の人生に影響をあたえたものとして出てくる。聞き取り調査によって、このような個人と社会の接続があきらかになるところが面白いのである。

 

また、宮本の生活史の記録からは、たしかに情感にみちた小説のような手触りがある。とくに太平洋戦争真っ最中に書かれた「家郷の訓」などは、検閲に配慮してか、教育勅語的な道徳を強調しすぎているきらいがあり、読んでいて胃もたれする。

しかし同時に、調査対象者に必要以上に肩入れしない、研究者としての目線も感じられる。

 

たとえば、河内国の左近熊太という古老への聞き書きをまとめた、世間師(二)の終わりの部分。

 

それにしてもこの人の一生を見ていると、たしかに時代に対する敏感なものを持っていたし、世の動きに対応して生きようとした努力も大きかった。と同時にこのような時代対応や努力はこの人ばかりではなく、村人にもまた見られた。それにもかかわらず、その努力の大半が大した効果もあげず埋没して行くのである。

「世間師(二)」p259

 

宮本の文章からは、文字記録に残らなかった農村の人びとの生活努力や歴史を無条件に称揚するばかりではなく、その努力の多くが徒労に終わってしまうこと、また波乱の歴史をもっているひとでも、文字記録に残されなかったがゆえに、その生涯が多くは歴史の澱の中に沈んでしまうことに対する、通徹とした、冷静な目線が見てとれる。これは、まちがいなく研究者としての宮本の問題意識からくるものであろう。

 

研究者としても、フィールドワーカーとしても、そして文章家としても不世出のひとであろうけれども、研究分野やその才能が多岐に渡るがゆえにいまだ正当な評価がなされていないというのが、「忘れられた日本人」を一読しての、宮本常一という人物と彼をとりまく現状に関する個人的な感想である。