a long vacation

この長い余暇を生きぬくためのメモ

初期の大江健三郎における文体の変容

大江健三郎は勤勉な作家であった。23歳、東京大学在学中に『飼育』で芥川賞を受賞し、そのまま一般企業に就職せずに作家生活に入った。それ以来、というのはつまり、1957年に文壇にデビューしてから2023年にその人生を老衰によって終えるまで、一貫してかれは作家であり続け、また作家以外の何ものにもならなかった。

 

文壇全体を見てみると、大学在学中にデビューし、そのまま他の職種を経験せずに作家になった、という、いわば”真の”作家は非常に少ない。近代の文壇では綿矢りさくらいで、有名どころの「文豪」たちを見てみると、たとえば夏目漱石は大学教授を経験しているし、三島由紀夫も東大卒業後大蔵省での勤務を経験している。また村上春樹は、30代で作家になるまでジャズ喫茶を経営していた。

作家たちの作品性や作品世界の規定に、このような自らの社会経験が活きていることは疑いえないだろう。

 

そこで大江を見てみる。デビュー当時の大江には、他の作家に当然ある社会経験がない。しかしそれゆえに大江の独特の作品世界はかたちづくられ、初期から中期にかけての文体が成立したのだとみることもできる。

大江健三郎の作品は「純文学」というくくりで語られることが多いが、おもに初期・中期の難解な文体によって、多くの人がかれに馴染みがたい堅固な独立感をもった作家という印象をもつのだという。大江の魅力を語るときに述べられることの多い「文体」であるが、これは当時かれがよく読んでいたフランス文学の(主に哲学書の)翻訳の重々しく難解で曲がりくねった文体に影響され、半ば意図せず、また半ば意図して、かれが作りあげたものである。ただ、大江健三郎の後期作品(『懐かしい年への手紙』あたりから)では、一転して文体は簡潔で明瞭なものとなる。

 

そのことについても大江は自覚的であり、かれは後期の作品『取り替え子(チェンジリング)』で、自らをモデルにした主人公、古義人に訴えるかたちで、その妻千樫に語らせている。

 

―あなたがまだ若くて、おもに翻訳を読んでいた頃、早口で発音不明瞭というところもあったけれど、話の内容は本当に面白かったのね。輝やくような、風変りなほど新しい表現があって……

 それが永いメキシコシティー滞在の後、翻訳じゃなく外国語で本を読むようになってから、あなたの使う言葉の感じが変ったと思う。新しい深さが言葉に反映している、とは思うことがあるのよ。けれども、なにか突拍子もないおかしさ、面白さの言葉には出会わなくなった。小説に使われている言葉もそうじゃないかしら?成熟ということかも知れないけれど、以前のようにキラキラした言葉はなくなった。

(『取り替え子(チェンジリング)』講談社文庫、第9版、72ページより)

 

大江の文体がどこまで作為的に、どこまで無意識的に書かれたものなのかということについてはさまざまな議論があるが、私個人の意見としては、まったく無意識でなく、まったく作為ではなかったというありきたりなものに終始するほかはない。ただ、この文体の変容する過程について、大江は作為を多分に用いていたとみられる。

大江は後年、インタビューのなかで、大江のデビュー作である『奇妙な仕事』の文体についてこのように語っている。

 

大学三年から四年にかけての春休みに、ピエール・ガスカールの『けものたち・死者の時』の原書と、渡辺一夫さんの翻訳を合わせて読み、小説を書いてみようと思い立って、すぐに三十枚ほど書けたので、五月祭賞に応募したんです。いま読んでみると、もうガスカールそのもので、よくこんなものを自分のオリジナルな小説と自信を持っていたと不思議に思うほどですが。

(『大江健三郎 作家自身を語る』新潮文庫、第三刷、56ページより)

 

『奇妙な仕事』の文体はガスカールを模倣したということらしい。またこの頃大江は、海外小説や哲学書の翻訳書のなかに読み取った気になる一文を、原文と照らし合わせてみるということを行っていたと、同じインタビューの中でかれ自身が述べている。

 

大江の文体はまた、中期(『万延元年のフットボール』~『同時代ゲーム』)にその難解さが頂点に達するのであるが、これに関して文芸批評家の加藤典洋がすぐれた考察をしているので引用したい。

 

ぼくの経験をいえば、ぼくは数年ぶりに発表された彼の小説を雑誌連載の形で読みはじめ、たちまち従来と全く異なる彼の文体の生硬さに躓くことになった。第一章の冒頭近く、彼は、

「それから僕は自分が火葬に立ちあった友人のことを、観照した」

と書いていた。…(中略)…

このコトバは、いま思い返すなら、英語のcontemplateの訳語であることが明らかである。

(『万延元年のフットボール講談社文芸文庫、第五十一刷、464ページより)

 

また、加藤は『万延元年のフットボール』の文体に関して、「意識的な文語的用法の痕跡が著しい」と述べている。かれはさらにつづけて『日常生活の冒険』のなかにある、「いかめしい鎧をきた文体でじゃなく、いわば女が腰のあたりまでくらいの肌着を一枚だけ着て部屋のなかを歩きまわっている、という文体で」小説を書きたい、という部分を引用し、このような姿勢から脱して、「自分の文体を石で砕き、大江が自分を改造しようとしていたことが知られる」と述べる。

 

私もこの意見に賛成である。少なくとも、百パーセント無意識的に、大江の文体が初期のようなものから、『万延元年のフットボール』のようなものに変容したとみることはできないだろう。大江は自らの小説の作法に非常に自覚的な作家であるから、自分の小説を特徴づけるひとつの要素となっていた「文体」について、かれがまったく無意識的だったというのは考えづらい。また中期から後期の文体の変容については、かれが『取り替え子(チェンジリング)』のなかで千樫に述べさせている、さきに引用した部分の通りである。

大江は自分の文体を、多分に作為を用いて変えている。少なくとも『万延元年のフットボール』などの作品群においてはかなり自覚的だったはずだ、というのが私の見解である。